楽友会通信 NO.5

1999.12.25 指笛楽友会発行 より転載


田村先生故郷で盛大に指笛講習会開催


 7月、田村先生の故郷である秋田県仙北町の芸術文化協会長より文書を頂きました。「・・・田村先生のご活躍は、当町にとりましても誇りとなっておりますが、惜しむらくは・・・指笛音楽の発祥の地とされる仙北町に指笛の奏者並びに後継者がいないことは、先生の指笛を愛する町民にとって残念なことであります。・・・」ついては広く町民に普及させたいので、先生のご協力を頂いて講習会を行っていきたいとの趣旨でした。そこで早速役員会で対応し、先生のご協力を頂いて講習会を行っていきたいとの趣旨でした。そこで早速役員会で対応し、先生ご夫妻のご了解を頂いて、ミニコンサートを開催するとともに講習会を継続的に行っていくことを確認しました。仙北町との連絡の結果、第一回が10月23,24日と決定し開催されました。

 コンサートと講習会には先生ご夫妻のほかに、門下生の中村、有吉、河津、斎藤の諸氏と河津さんのご主人がお手伝いとして参加してくださいました。86歳の先生が秋田までマイカーを運転なさって行かれたのには、私たちも芸術文化協会の方々も驚きでした。中村、有吉、斎藤組は新幹線で、河津さんはご主人とラブラブの愛車で会場に乗り入れました。当日は町の文化祭の日でもあり、会場の「ふれあい文化センター」には農産物や盆栽、短歌、俳句、絵画、書道、写真、洋裁、焼き物、手作りケーキ等々の作品が展示してあったり、イベントホールではカラオケやモダンバレエ、太鼓、舞踊などの舞台発表が行われていました。

 午後4時文化祭行事終了後、私たちのコンサートを開催しました。この日はダイエー対中日の日本シリーズ第一戦及び中学校の中間試験の期間と重なり、芸術文化協会の方も心配して下さっていたのですが、場内放送が入るとそれまで閑散としていたホールにたくさんのお客さんが集まってくださり私たちもほっとしました。

 はじめに門下生が2曲ずつ演奏し、次いで先生と奥様が出演なさいました。田村先生の演奏に熱のこもったことは言うまでもありません。郷里への思いが強く感じられました。会場には75年も昔の同級生が訪れていたのです。「里の秋」「荒城の月」「ふるさとの」等の演奏をどんな思いで聞いてくださったことでしょう。

 コンサート終了後、中村さんのリードで一回目の講習会を開催しました。40名ほどの方が指導を受けましたが、早々と2名の方が音を出してくれました。翌日2回目の講習会は、会場をふれあいホールに移して行いました。参加者は延べ60名ぐらいありましたが、前日と違って小学生が沢山参加してくれました。これは私たちも願っていたことで将来に希望がもてました。この日は、女子小学生1名と芸術文化協会職員の山崎さんから確かな指笛の音が発せられました。職員の方が指笛の音を出せたということは、仙北町に指笛音楽が根付きそうな期待を持たせてくれました。私たちが会場を去る直前にも、駐車場においてハプニングとも言うべき3回目の講習を行い、大勢のかたがたが取り囲んで下さいました。

 講習会終了後田村先生出身の小学校を訪問し、校門近くに建つ「指笛音楽の里」の記念碑を囲んで記念写真を撮りました。大変立派な記念碑です。郷土の方々の田村先生と指笛音楽に寄せる熱きものを思わずにはいられませんでした。次いで今から1200年前の遺跡といわれる「払田の柵」を見学しました。田村先生が子供の頃よく遊んだという所で、小高く土地が盛り上がっていました。そこは平安時代の初めから出羽の国を治めていた役所跡といわれ、立派な門が復元されていました。先生の生地は秋田の片田舎ではなく、大昔は東北の一大都市(?)であったことを発見しました。

 今回のコンサートと講習会にあたっては、仙北町芸術文化協会長の後藤さんと事務局長の山崎さんにたいへんお世話になりました。助役さんには開演にあたってご丁重なるご挨拶を頂き、町長さんにはご多忙の中帰途お見送りを頂きました。仙北町の方々が指笛音楽を大切に育てようとしている気持ちが強く伝わってきた講習会でした。仙北町の皆さん、私たち指笛楽友会は仙北町に指笛音楽の流れる日を楽しみに待っています。

斎藤記


故郷での公演を終えて

田村大三

 今回の仙北町行きは本当に良かったです。故郷で門下生達と公演することは私の長い間の夢でした。それが実現できたことはこの上ない喜びであり、一生の思い出となりました。門下生が私の故郷である仙北町の風景や人々に直接触れ、ステージで演奏し、そしてあの指笛音楽の碑の前に立って、一人一人がジーンとしたものを感じてくれているようで、私は感涙にむせびました。指笛音楽と出会ったことを喜び、田村大三の門を叩いたことに感謝してくれていると思うのです。7年振りの故郷、町民の皆様が温かく迎えてくださいました。芸術文化協会の後藤会長さんや山崎事務局長さんの気取らない、自然のお迎えに心がなごみました。皆様に感謝申し上げます。

碑の叫び

田村静海

 10月23、24日の仙北町指笛講習会は、日の過ぎた今日にまで意義深いものと思われています。こんなある日ふと”碑の叫びがあったのだ”と何か不思議な世界に心を奪われていました。平成11年7月半ば突然一通の封書が送られ歩みだしたこの講習会はその日の来るまで又終わった今日まで、道のふさがることなく歩みつづけているのを感じます。碑が立てられて7年間、あの石を思わなかったわけではありませんでしたが、誰が言い始めたのでもなく、石その物の叫びからおこったと思えて、私は不思議な感動と尊い思いを持たせて頂いています。



 

東京〜仙北町〜講習会

中村倫二

 「指笛音楽創始者」田村大三先生の故郷で指笛普及指導と演奏の実現が可能となるこの話を聞き、ぜひ秋田、仙北町へ行きたいの思いが湧いてきました。そしてそのチャンスを戴いた当日の10月23日(土)8時50分東京駅着、東北、山形秋田新幹線「やまびこ」9号、9時56分の発車まで約一時間の余裕あり。自由席16号車ホームの先頭に荷物を置く。斎藤氏、有吉氏は未だのようだ。発車まで30分前、20分、15分、・・・・・おかしい?電光掲示板を確認、「こまち」自由席は1号車〜4号車。しまった!!5分前列車が入ってきた。慌てて荷物を抱えて16号車から先頭車両めがけて一目散に走る、走る、走る。自由席4号車へ飛び乗る。3号車、2号車、有吉氏をみつける。今、斎藤さんが探しに行ったよ・・・無事合流・・・こんなハプニングの始まりで一路秋田へ・・・

 大曲駅到着、協会の山崎さんの温かい出迎えを受けてホテル、そして演奏会場へ直行。前述の指笛普及指導が目的とはいえ、先生の故郷で指笛の演奏ができることに何か言い知れぬ喜びと深い感激が込み上げて来ました。諸事情があり門下生は4名の参加となりましたが、指笛音楽発祥の地、仙北町には門下生全員の方々にぜひ行って戴き田村大三先生の「ふるさと」で今ある自分を実感してもらいたい気持ちで一杯でした。

 さて地元での我々門下生の演奏と先生ご夫妻の素晴らしい演奏会を終え、本目的の指笛講習会である。担当の指名を受けて密かに期待していた多数の秋田美人を前にしての指笛指導は完全に裏切られ、元、元秋田美人と男衆、そして小学生を含め約40名の方が会場に残りました。出発前に急きょ作成した「指笛の吹き方」小冊子を配布し実技指導となりました。参加者全員が真剣に指笛の吹き方に挑戦!!悪戦苦闘の中に素朴で人間味あふれる仙北町の皆さんのお顔が印象的で忘れることができません。

 翌日の講習会では秋田美人を含む多数の小学生が集まった中、86歳になられた大三先生を囲んでの語らいの風景の中に、かつて体育の先生が生徒の集合合図に鳴らした指笛の音色(おと)が、今は完成された音楽の音色(ねいろ)として故郷の児童たちに受け継がれていく光景に、ほのぼのとした温かさと深い感動を憶えました。

 当日の講習会が大成功であった事は、言うまでもありません。

 

指笛音楽の里を訪ねて

有吉憲行

 指笛公演は16時半に開演されました。主催者側歓迎の挨拶が済み、全員がステージへ出て仙北町の皆さんに挨拶した後、私が最初に演奏しました。

 最初の曲はドボルザークの「家路」です。自分で準備したカセットテープによる伴奏でした。当日何の練習もせずにぶっつけ本番でいどみましたところ、やはり高い音がだせずうまく吹けませんでした。前以って音階でも吹いておけば調子が出たのだがと残念な思いです。

 次にフォスター作曲の「夢見る人」はテープ伴奏が流れない為、舞台へ3回も登場することになりました。3度目にやっと伴奏音が出て、吹き終える事ができましたのでほっとした次第です。

 今回の演奏で感じたことは何事も準備不足(事前の練習や音響機器の作動点検などをしなかった)では成功しないのだ、予期せぬ事もおきるのだと深く反省しました。

 翌日の講習会では、私は音階のドレミファソファミレド等を少し練習していましたので、見本演奏「家路」をきれいに吹きこなすことができました。この後私たち全員で指笛の指導したのですが、2人の女の子が音を出せるようになり田村先生とうれしそうに握手していたのが印象的でした。事務局の山崎さんも左手で音が出て、私たちも感動しました。今後の仙北町に「指笛音楽の里」と呼ぶにふさわしい根付けができたのですから、これには町の皆様もきっと満足されたことでしょう。

 この講習会が終わって戸外に出ました。青空に鳶が舞っているのどかな田園風景です。中村さんが指笛で鳶を呼びましたところ子供たちが珍しそうに集まって来ました。早速子供たちの前で我々は指笛を演奏しました。森のくまさん、もみじ等を吹きました。よい子の皆さんは楽しそうに聴いたり、歌ったりしてくれました。

 文化センターを後にして、田村先生の母校にある「指笛音楽の里」と彫られた記念碑や平安時代の役所跡といわれる遺跡を見学しました。私は田村大三先生著の「指笛音楽60年」の本を読み、一度この地を訪ねてみたいと思っていました。今回その思いが叶えられてとてもうれしいです。

 

 

田村大三先生の故郷で

河津菊枝

 秋田県仙北町公演のお話を伺った時、すぐ頭にひらめいたのが、幼い頃遊んでもらった友人宅訪問でした。幸いなことに休暇も入り、前日の金曜日には秋田県の日本海側に泊まり、公演当日には午後一時に会場に到着。「仙北町ふれあい広場」の看板と玄関前テントに並べられた手作りの食品、名産品の数々とそれを楽しむ方々が目に入りました。ホールに入ると踊りにカラオケ民謡と多芸な方々の披露に圧倒されてみていました。

 指笛の開演30分前には、夕方の忙しさもあって人影もまばらとなり、「何でも物事を始めるときは少人数だから・・・・」などと自分自身を納得させていましたら、「田村大三公演」は芸術文化協会会長・町長(助役さんが代理)の挨拶から始まり、人が突然集まりだしたのには、仙北町の方の並々ならぬ思いを感じました。当日の公演はさすが大三先生の”カーネギーホールでの演奏者””世界的に有名な音楽家”どおり、すばらしい演奏でおわりました。

 その後の講習会では、「女性でも吹けるんですよ」「指笛が吹けると便利ですよ」等アッピールしながら、中村さんの指導で中年男性と女子中学生が音を出し始めると、そこからは私も「そのあとはホラ、ホーホケキョでしょ!カッコ―でしょ。鳥も集まってくるんですよ。そしてピアノに合わせて音階を出すと、好きな音楽が何でもできて楽しいですよ」と大宣伝。時間が”あっ”というまに過ぎてしまいました。

 翌日の講習会は、前日に音を出した女子中学生を含め小中学生が多く参加、また私より先輩のおばさま方も会場に座ってくれました。「腹式呼吸だから、ダイエットにいいのよ」が一番心に響いたらしいおばさま方。「音は出なくても一週間、一ヶ月がんばれば物になるから、そしたら一緒に東京で発表会に参加しましょうね」などと約束しながら励みました。二日目の2時間の中で、「ダメダ」と早々に去る男子小中学生のいた中で最初から最後まで残って絶望にくれていた11〜12歳の女の子が音を出し、飛び上がって喜んだ姿に会場の全員に熱いものが込み上げました。

 講習会が終わり帰る準備をして、駐車場にいると始まった野外・即席コンサート?では「トトロを吹いて」と前日披露した曲をアンコールしてくれ、喜んでいてくれたのかと胸が熱くなりました。

 今回の旅は、私の中に暖かい風とエネルギーを与えてくれた幸せな一時でした。このチャンスを下さった田村先生ご夫妻に感謝して、つたない感想文を終わりにいたします。ありがとうございました。



 

父が与えてくれたもの

石原泉(次女 本会顧問)

 子供は皆、両親からの有形無形の愛情を受け継ぐわけだが、私が父(両親)から与えられたものの大きな柱は、宗教(キリスト教)と音楽であろう。こう書いてきて、まさに与えられたものの中でしか生きてこなかった自分に、歯痒さを感じないでもないが、人生の折り返し地点に立ってみて、感謝することのほうがはるかに多い。

 私はまだ物心もつかない頃から、両親の演奏活動に付いて童謡など歌っていたらしいが、或る養護施設を慰問に訪れたあとに、生徒たちからの礼状の束が届けられた。その中に、「あの時歌をうたった小さな女の子が、自分のような病気にならないように気をつけてあげて下さい。」という、小児マヒの為に手足が不自由となった少年からの手紙があった。

 両親は、その手紙をボロボロと涙を零しながら読み、「慰問したのは自分たちではなく、自分たちの方が慰問されたと感じた。」という話を、私は子供の頃から幾度となく聞かされて育った。

 両親の意向にそいつつ音楽(ピアノ)を専攻した私は、学業の余暇には父母の演奏活動に加わり、コンサートや演奏旅行で同じ舞台に立つことも次第に増えていった。そうした中で、数えきれないほどの演奏会場以外の場―病院、刑務所、児童養護施設、学校、老人ホーム等々―での演奏が、私が人間として成長する上で、どれだけのものをもたらしてくれたかは計り知れない。音楽を通してしか出会えなかった多くの人たち、彼らは私に多くのことを教えてくれた。私が敢えてここで〈慰問〉という言葉を使いたくないのは、かって両親が語ってくれたとおりの想いを、私自身が何度も感じ経験したからである。

 もし私が、音楽を専攻せず、両親と同じ舞台に立つことがなかったら、この想いを共有することはできなかっただろう。また何故、両親が先の話を私に繰り返し語って聞かせたかということの意味も、わからないままで終わっていたかもしれない。二重の意味で、私は両親が私に用意してくれたものをおもう。

 今、あらためて父の人生を考えるとき、決して平坦な道ではなかったことを思う。いわゆる順風満帆からは程遠い挫折の多い人生であったにも拘わらず、父は、「指笛」というものを天与の賜と信じて、変節することなくその道をひとすじに歩んで来た。

 そのことが、今の私にもうひとつの大切なことを教えてくれる。それは、人生は自分自身が勇気をもって切り開いてゆくものだということである。

 親心というものは、自分が苦労していても、子供には何とか良いおもいをさせたいと思うものだが、この歳になってみて、私自身、余りにも多くのものを与えられてきてしまったことを思わされる。しかし、始めに言った父から与えられた二つの柱に加えて、父の生きてきた生き方そのものが、これからの私の人生にとっては、大きな支えであり、確かな指針となってゆくことを信じている。

 



シリーズ 「私と指笛」

佐々木 久雄 (本会副会長)

指笛との出会い

 私と指笛との出会いは、小学校4年生の時でした。社宅の裏に住んでいた中学3年生の男性でした。人差し指と中指、左右4本で吹くのを見ていて、自分も吹いてみたら音が出たのでびっくりしました。それからはもう家にもどって、夢中になって吹いていたら、母にうるさいと言われたことを思い出します。そして数日経ってから、一オクターブくらいの聞きなれた童謡曲を、毎日のように吹いて遊んでいました。

 私の田村先生との出会いは、中学生の頃だったと思います。NHKテレビの「私の秘密」で、司会が八木治郎アナウンサーの番組でした。田村先生と門下生が数名だったと記憶しています。人差し指一本の演奏を聴いて、その時は驚いてテレビの前からしばらくの間離れず、感動の余韻にひたっていたものです。番組が終了から2時間くらいは無我夢中でふいていたら、高い音がピーと出たのです。もううれしくてその晩はなかなか眠られなかった気がします。

 高校を卒業して、父が友人を通して紹介された仕事をしている時、東京に居る姉から国鉄が臨時社員を採用していることを聞いて、私はすぐに田村先生の指笛が頭に浮かんでいました。そして試験合格通知が届いたときは、夢が現実としてかなうと思いました。

 昭和44年就職が出来て仕事も安定した頃、気持ちは指笛のことで、田村先生の自宅に電話したら、故黒羽美都子先生がすぐいらっしゃいと言ってくれました。その日に正式に入門の許しが出てびっくりしたのです。そして週一回のレッスンが始まり、私と同年代の畠山さんがライバル同士として、3年間くらいはもうお互いに意識しながらのレッスンをしたいい思い出が残っています。

 昭和49年頃には、いろいろな軽音楽にチャレンジしながら、私は目標を「NHKのオーディション」に挑戦したこともありました。私も長い間指笛をやってきましたが生涯の勉強と思っています。今後とも田村ファミリーとともに門下生一同で日々努力しましょう。

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