楽友会通信NO.9  楽友会トップへ

2000/12/25  指笛楽友会発行

 

シリーズ『私と指笛』

 

田村先生と出会えて「雑感」         船田弘子(本会会員)

指笛にまつわる話いろいろ          竹中速雄(本会会員)

指笛音楽との出会いの偶然など        松谷 茂(本会会員)

 

 


4回仙北町指笛講習会に参加して          武井洋子

よみがえった遠い記憶       仙北町みどり幼稚園園長   小林京子

 

事務局より

別添資料    スペイン大使館宛文書

 

 

 

 


シリーズ『私と指笛』

田村先生と出会えて「雑感」         船田弘子(本会会員)

 

 ほぼ40年前、新宿厚生年金会館で行われた障害者の集いに田村先生ご夫妻が見えて「カッコウワルツ」を演奏され、私は生まれて初めて聴く力強い何とも言えぬ音色と美しい旋律に一遍で魅了されてしまった。先生は帰り際、習いたい人が居たらいつでもいらっしゃいと話され、私は直ぐにでも行きたいと思ったが、働きながら夜間の指圧学校に通学していたので我慢して、卒業と同時に指笛の家を訪ねた。

 先生は暖かく迎えて下さり、直ぐに私の指をとり口にくわえて丁寧に教えて下さった。以来レッスンに週1回通った。初めて音が出た時はビックリ、後から嬉しさが湧いてきた。少しずつ音階が増え「蝶々」が吹けた時の感激は忘れられない。

 ボランティアと言う言葉が使われていない当時、先生は常に「持てるもので奉仕を」と話され、様々な所へ皆さんと共に参加させて戴きなかでも蝶々が吹けるようになって3ヶ月で勉強の為、中野刑務所の受刑者529名の前で「中国地方の子守歌」と「浜千鳥」を演奏するように言われ当惑。当日は何故か無心で演奏することができたが、私の下手な指笛に涙を流して聴いてくれた人、音がつまると声援してくれた人、心のふれあいを感じ清々しい気持ちになれた。

 東京パラリンピックの時、友の応援に行き日本選手の暗いイメージと諦めの早さに落胆したが、代々木青少年センターに宿泊中の外国選手の慰労に訪れ、『パラリンピック賛歌』を全員で次に先生が各国の民謡を演奏すると喜びを全身で受け止め、動かせる部位はどこでも動かし、あちこちからピーっと指笛や口笛の音、割れるような拍手の波。アッ!私を含む日本の障害者はこのようなことが欠けているのだと痛感し、これまでの閉鎖的環境も影響しているかとも思った。

 先生が島田療育園(重症心身障害児施設)の保母さんにピアノを贈る運動をされ、全員で三越デパートの屋上で指笛演奏し、巨人軍の選手たちがサイン会をしてくださった。それをクリスマスプレゼントに療育園を訪れた時、大勢の障害者との共同生活の経験でほとんどの障害を知っていた筈と思っていたが、もっと重度の人たちが懸命に生活していること、腰痛と戦いながら懸命に介護なさっている人たちを知り頭の下がる思いでした。先生のクリスマスソングに初めは緊張していた人達も顔を和ませ、その子供さんなりの反応を示す様子を目のあたりにして、目頭が熱くなった事が思い出させる。

 先生は深い信仰と青年時代に後藤静香先生の影響で指笛音楽の道一筋に歩まれ指笛に対する情熱は格別で、私達がママ先生と慕い続けた黒羽美津子美都子先生とのれっすん風景がまざまざと目に浮かびます。美都子先生亡き後その意志は静海先生と洋美・泉・恵先生3姉妹に受け継がれ、先生を中心に指笛に魅了された同志が集まり、少しでも先生に近づかんと技術の向上と伝承に情熱を燃やす姿に接し嬉しく思います。身体の具合で指笛が吹けなくなった私ですが、楽友会の一人として戴いている事に心から感謝しております。

 

 

 

指笛にまつわる話いろいろ          竹中速雄(本会会員)

 

 それまで週末になると、決まってテニスコートと野球場がある付近の公園の一角に陣取り、ラジカセをバックに指笛の練習をしていた。近くには雑木林や農家を包む森があり、畑が広がっていて、指笛の音色は広く遠くまで吸い込まれていくのだった。子供たちが聞きにきた。

 ある日のことであった。一人の女性が遠慮がちに近づいて来た。

 お願いがあるんですが、という眼差しが真剣だった。

 うちに病人が寝ていまして、その音がうるさくて眠れないらしいんです。できたら他の場所でやってもらいたいのですが。

 予期せぬ言葉に、私はとてもうろたえてしまい、自分勝手な行動を謝り、すぐに練習をやめた。以来そこで練習したことはない。

 音を出す側は、自分のための練習でもあり、自身はそれで満足であるが、それを聞かされる側への配慮が足りなかった、と反省した。

 

次に見つけた場所は、臨海工業地帯沿いに貨物専用線路が引かれた所で、車で入っていけるし、幸い近くに人家もない。広々として風景の中だ。ここならどんなに大きな音を出しても問題ないだろう。

しばらくここで練習を続けているうちに気づいたことは、一定の時間になると貨物列車がやってくることだ。私は遠慮もせず、指笛を吹く。ある日、列車が停まった。運転席にはちょうど指笛の音が届く距離である。列車はそれ以来必ず停まっていくようになった。

家に帰って家内に言う。列車の運転手さんが毎回指笛を聞いてくれているようだ、と。

家内は、単に時間待ちしてるだけでしょ、とにべもない返事。

いやいや、ちゃんと窓も開けているし、出発するときはお礼の警笛を鳴らしていくよ、と私。

出発するときはどこでも鳴らすんでしょ、と家内。

私はまだ納得できないし、いまだに真相はわからないが、一人でも聴衆がいると思うとうれしいものである。

 

仕事でよく外国に出かける機会があった。ある年4月、ストックホルムでのこと。

5月の指笛発表会を控えていたが、練習の時間がない。ホテルでやろうにも場所がない。そこで早朝、ホテルの前に出てみた。そこは港に面していて、対岸に古いお城や旧市街が望める。まだ厳しい寒さが残る季節、ホテル前を歩く通勤の人々はまれだ。思いきって音を出す。澄んだ音(自分ではそう思ったが)が朝霧をついて港を渡っていく。夢中で一曲を吹き終えた。突然背後で拍手の音がした。びっくりして振り返ると、一人の婦人が立ち止まり、聞いていてくれたのだった。

ワンダフル!(これは私が言ったのではない)

このときのうれしさを私は今も忘れない。

 

 

 

指笛音楽との出会いの偶然など        松谷 茂(本会会員)

 

 まだ土曜日の半日勤務があったころのある秋の日、午前仕事から解放されて、数人の友と後楽園球場に日本シリーズを見に出掛けた。

 試合が動き出し、球状全体も盛り上がってきた頃、友の一人が、ピーーと鋭い音を出したのである。それは周りの応援をさらに勇気付けるように球場全体に響き渡った。

 ひいきのチームのチャンスにもせいぜい、「いいぞー、いけいけー」と、とおらない声で応援するしかない自分がもどかしく感じられたものである。

 これが私の指笛との出会いの第一の偶然である。自分もあんな音で応援ができればと思った。そして、実は、この時もう一つの偶然もあったことに後で気づくことになる。

 それは、そのとき彼に詳しく吹き方を教わらなかったという偶然である。親指と人差し指を口に入れて吹く様子は見たが、夢中で試合を観戦し、その後は飲み屋に直行となってしまった。先ほどの指笛の吹き方を聞くチャンスはあったのではあるが、あおったビールの泡にもみ消されるように関心そのものが消え去っていた。鋭い音色から考えると、彼の指は、舌の下に入っていたものと思われる。曲を演奏するには指は舌の上に置かなければならないことから、もしあの場で彼の吹き方を教わっていたとしたら、今の指笛には到達できなかったかも知れないのである。

 そんなことがあってから何年かの後、週末の散歩の河原で、親指と人差し指の先を合わせて口に入れ、フーフーとあの友人のまねをしている自分があった。そのうち途切れ途切れながら「ちょうちょ」程度は吹けるようになってきた。

 そんなある散歩中、ずっと以前にテレビで指笛を見たことあり、両手のクローズアップが映っていたことを思い出した。テレビのとおり両手で吹くのが正しいのだろうと、勝手に考え、両手の人差し指の先を合わせて屋根型を作り、上の部分を口にくわえて吹くようになった。テレビの出演者が田村先生であり一本の指での演奏であったことは、知る由もなかった。

 指笛との出会いの最も大きな偶然は、私の場合、わが国への消費税の導入と深くかかわっているのである。平成元年4月からの消費税導入を記憶されている方は多いかと思うが、その直前の1月から大新聞が一斉に値上げしたこととなると如何だろうか。金額の多寡は別として消費者にとってはダブルパンチである。社会の木鐸を自認する大新聞が、しかも直前まで消費税の反対キャンペーンを張っていたのにである。私はささやかな抵抗の意味で購読を止めることにした。「長いお付き合いですから、1月一杯は無料で配達させていただきます。」と販売員は私の翻意に期待したようだったが私の決意は固かった。

 ところが、無償の新聞は、いつ配達されなくなっても文句は言えない。所詮サービスなのであるから・・・。一月に入って俄然サービス新聞が愛しくなって来たのである。自分では意識していなかったと思うが、これまで以上に熱心にやがて来なくなる新聞に目を通す日々が続いたのである。

 そんなある晩、「指笛教えます。」という文字が目に飛び込んできた。何とそれまでほとんど読むことの無かった夕刊の文芸欄まで見ていたのである。これまでのような普通の購読であればこの記事は目に入らなかったであろう。記事はたった一行で、下の方に連絡電話番号と参加費1,000と書いてあった。田村大蔵と言う名前があったかは記憶が無い。テレビで放映するぐらいだから、東京には指笛を教える人は沢山いるのだろう。いずれチャンスがあれば・・・と思っていた私にとっては、教えてくれる人の名前に関心は無かったのである。

 平成元年29日、大泉学園のまだ見ぬ指笛教師宅に出向いた。花に囲まれたご婦人の遺影と数人の門下生と称する方々の前で、年配の紳士からあったかい手で握手されたのである。

 その人が指笛音楽の創始者で、世界的に有名な田村大三先生であることを真に実感するまでには多少の日時を要した。もちろん遺影のご婦人は黒羽美都子先生で、その日は先生の1年目の命日であったのである。

 私は、毎年この田村先生の指笛音楽と命日として黒羽先生に出会った日を「吹く日(29日)と称している。

 

 

 

 

 

 


4回仙北町指笛講習会に参加して          武井洋子

 

102122日に4回目の講習会と幼稚園でのミニ演奏会が開催されました。この度の講習会には斎藤秀・村山・奥津・武井の4名が出向きました。

21日早朝530分大泉学園を出発、東北道をまっしぐら、車内での指笛練習も快調、北に行くにしたがって紅葉が色濃くなり、仙北町も秋たけなわの季節の中、第33回の文化祭が催されていました。講習会は3時から開催となり2階のホールでは小中学生10数名大人数名が私達を待っていてくれました。4回目の講習会ともなりますと経験者が多く、皆さんリラックスムードで音だしに取り組み、延べ30名程の方々が参加して下さいました。すでに曲の吹ける後藤さん、山崎さん、中学生の久美子さんには最後に楽友会のメンバーと共演していただき、田村先生の88歳公演には仙北町から出演者が出るよう願って皆さんとお別れしました。

 二日目、昨夜から熱が出始めた村山さんは、10時からの幼稚園での演奏会前に病院で診察を受けることにし、3人はその間、仙北町の誇り「払田の棚」を見学しました。小高いところは町に2ヶ所しかないという、そのひとつの史跡の丘から望んだ仙北平野は、広々とした米所の田園風景でした。注射をして少し元気になられた村山さんと合流し、「指笛音楽の里」の記念碑に立ち寄りました。黒光りした記念碑は凛としてまさに田村先生の功績を称えんばかりの感がしました。

 幼稚園は祖父母参観日となっていましたので、園児、おじいちゃん、おばあちゃん、職員の方々が200名程ホールで待っていてくださいました。園長先生と斎藤さんの挨拶のあと早速、村山さんのトークで場が盛り上がり、クワイ河マーチから演奏に入りました。ぞうさん、七つの子、夕焼けこやけ、ふるさとなど園児も祖父母の方々も楽しめる曲を交代で演奏しました。めだかの学校の曲のときは斎藤さんはすっかりおじいちゃんになりきり、メダカ泳ぎを披露したり手遊びをいれたり、また吹き方の講習に入ると会場から、どの指ででも音を出せるおじいちゃまの飛び入りがあり皆を驚かせていました。最後は園児全体が起立して祖父母と対面し、園児の大好きなトトロのさんぽを指笛と合唱し本当に楽しい演奏会になりました。終わったのち園長先生が小学生の時聴いた田村先生の演奏会を思い出してとても懐かしかったと感激してくださいました。指笛の里健在なり。

 2日間の日程を終え、また熱が出始めた村山さんの運転で帰路につきました。折りしも高速道路に入ったとたんにどしゃぶりの雨と霧、前途多難の感は的中。村山さんは高熱と喉の痛みで苦しくなるばかり、サービスエリアで調達した氷で頭、喉、襟首を冷やしながらの運転、苦しそうな村山さんに代われるものはなく代行の手配まで考えた程でしたが、頑張って東京まで運転するとのこと、助手席の斎藤さんは不安を隠し村山さんに声をかけ、私たちは村山さんの症状が良くなることを祈るばかり。スピードの中、何度かハンドルを取られひやりとする場面もありましたが、夜の11時無事東京に着きました。この時は村山さんは声までかすれ最悪の症状になっていました。村山さんの頑張りと責任感の強さに感服しました。本当にご苦労様でした。

 この度の講習会で「ゆびぶえの里」に確実に後継者が生まれるだろうと確信でき、それを育てようとご尽力なさっている文化協会長の後藤さん、事務局長の山崎さん始め関係者の方々に敬意を表しまして、お世話になりましたことに感謝いたします。

 

 

 

 

よみがえった遠い記憶       仙北町みどり幼稚園園長   小林京子

 

私が幼い頃、高梨小学校の体育館で聞いた音(ね)が、有名な田村大三先生の音だった。その音色が今だに忘れないでいる。今のように娯楽のない時代だっただけに、その日の来るのを胸をときめかせて待っていたことが記憶にある。そんな想いを抱きながら、1023日の祖父母参観日に「指笛ミニ演奏会」を聞いた。奏者は楽友会の4名の先生だった。

祖父母たちは、最初の一曲が終わると、「ウオーッ」と感嘆の声を発し、遊戯室は拍手でいっぱいになった。次々と奏でるなつかしい曲に酔いしれていた祖父母たちだった。

私たちは遠い記憶の中にある、あのきれいな音がよみがえってきた。きょうの音は4人の音色だった。なんといい日だ、楽しい日だろう。演奏の合間合間に指笛の指導もしてくださった。田村先生が、昔ステージの上で白いハンカチで指を拭き、「たった一本の指で、こんなにたくさんの音が出るんだよと言いながら、指のくわえ方、舌の置き方を指導してくださったことが、まざまざとよみがえってきた。私自身が昔の記憶をよびおこし、小さい頃の気分になれたことを嬉しく思った。

後日、ある祖母の方が「あの指笛を聞いてほんとうになつかしく、昔のことを思い出しました。あの思い出と共に昔遊んだ遊びや手遊びを思い出し、知人と一緒に詩を歌い書きとめてみました。わからないところがあったので、知っていたら教えていただけないでしょうか」と言う電話をいただいた。(職員全員で、その詩を歌ったのはいうまでもない)

数日して、知人と二人だけではもったいないので数人が集まり、食事をしながら歌って、手遊びをして楽しんだことを報告に来てくださった。

指笛ミニ演奏会のおかげで、昔の記憶がよみがえり、祖父母との共通話題ができて交流もスムーズにいき、職場では職員一同で昔々の遊びを子供たちと一緒に興じている毎日です。

ほんとうにありがとうございました。御礼申上げます。

 

 

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事務局より

 

Ø       総会 新年会のお知らせ:先にお知らせしましたとおり1/8(月)成人の日午後3時〜7時 会費3000円。皆様ご出席ください。1/5までに先生宅にご一報下さい。

Ø       会費納入のお願い:お忘れの場合は会計よりお知らせさせていただきます。

Ø       会員の住所・電話番号などの変更があります。

Ø       各地の活動状況をお知らせください。ご紹介したいと思っています。

Ø       12/12付けのお知らせに関連して、ゴメラ島との指笛国際交流につきスペイン大使館に次頁の文書等を送りました。アポイントをとるための手続きです。

Ø       指笛音楽が新しい世紀の中でどう輝いていくか楽しみです。大いに前進しましょう。

 

 

別添資料    スペイン大使館宛文書

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20001218

スペイン大使館 殿

指笛楽友会会長  田代 順一

 

指笛による国際文化交流をご支援ください

 

私達のグループは指笛で楽曲を演奏する団体です。指笛音楽は田村大三が創始したもので約70年の歴史があります。私達の指笛は人差し指をくわえてオカリナやフルートに似た音を出しながらメロディーを奏でます。田村はかつて、これによって南北アメリカ大陸を演奏旅行し、ニューヨークのカーネギーリサイタルホールで演奏会を行ったこともあります。

 昨年の12月、日本のテレビを通じて、貴国スペインのカナリア諸島「ゴメラ島」に指笛を使って遠方の人同志が交信する伝統文化のあることを知り、たいへん興味を惹かれました。私達の吹き方と類似しているようでもありましたが、細部については良くわかりませんでした。島ではこの文化を残すために学校で指笛の指導を始めたとのことでした。

 ゴメラ島では指笛が言葉の代わりとなって、音声では届かない遠方の人と会話をしています。私達は指笛で音楽を楽しんでいます。この二つが交流して互いに教えあうことができたら、どんなにか素晴らしいと思いました。これによりそれぞれの文化・芸術を21世紀を担う世界中の若者たちに伝えていくことは大変意義深いことだと感じています。

 私達はこうした文化交流と貴国との友好を願って、別紙のとおりゴメラ島の訪問にあたり、私達の活動が円滑に進みますように、下記の事項等について貴大使館のご援助を頂きたくお願い申し上げる次第です。

 

 

 

1.      ゴメラ島の指笛活動のリーダー及び組織をご紹介頂きたい。

2.      指笛文化による文化交流について、リーダー及び組織に打診して頂きたい。

3.      交流の場所の設定にあたってご支援を頂きたい。

4.      小学校の生徒達との交流の機会を設定して頂きたい。

5.      スペインの子どもたちがよくうたう歌をご紹介頂きたい。等々

 

 

指笛楽友会事務局

住所 電話番号:(ここでは略)

事務局担当:斎藤秀元(自宅電話:ここでは略)