楽友会通信NO.10 戻る

2001/3/25  指笛楽友会発行

 

田村大三米寿記念コンサート

指笛音楽感謝リサイタル

田村ファミリー

2001421日(土) 開場5:30 開演 6:00

日本青年館大ホール

東京都新宿区霞岳町15番地  03-.3475-2455

入場料 3000

いよいよ田村大三先生の米寿記念コンサートが一ヶ月後となりました。先生の指笛人生の集大成として田村ファミリーが指笛の喜びを前面に出し総出演されます。又私たち門下生は過日はがきでお知らせしましたように4曲(故郷、勝利、村の娘、クワイ河マーチ)を先生と一緒に演奏します。門下生としましても記念すべき日となりますので、できるだけ多くの方々が出演・入場されますよう希望いたします。今回は先生から出演者を中心に招待券が贈られますのでお知り合いの方にご来場をお薦めくださるようお願いいたします。

指笛の発展と普及、日本の文化として高め伝えていくことに力を合わせていきましょう。そして指笛音楽を楽しみましょう。

 

シリーズ 「私と指笛」

指笛が吹けない弟子   中村千里

「希望のささやき」とともに  塩谷 彰宏

指笛の上手な女の子との出会いが   中村 綸ニ

宮城富雄先生を偲ぶ  鈴木玲子

中村洋美さん(田村先生ご長女 アメリカ在住)から新年のご挨拶

事務局より

指笛が吹けない弟子

中村千里 (元後援会副会長)

私と田村先生の初めての出会いは、昭和20年の終戦の時に共に台湾島内で軍隊から除隊となり、社会人になって台北に出ましてからの偶然の機会からでありました。

先生は戦前既に相当のご苦労をされて、指笛音楽で日本国内で日本国内での芸能界にて名を成しておられましたので、台湾に居られた日本人の先生方に呼びかけて、台北市公会堂で第一回のチャリティコンサートを行うことになりました時に少々お手伝いをしたことがご縁となりまして、長い一生のお付き合いをすることとなりました。

昭和21年3月に会社の人達と一緒に帰国いたしまして、本社(旭電化)に復帰して一年足らずで大阪営業所に転勤し、昭和30年に本社に戻り総務関係の仕事に携わりました。その頃から再び先生の中野の「指笛の家」を訪問するようになりました。

私が田村先生と半世紀の間お付き合いが出来たのは、初めてお会いしてから先生の御人格と御人柄にすっかり惚れ込んだことにあります。先生の今日の御人格をお作りになりましたのは、若い時から御令兄様のすすめでキリスト教を信仰され、又「心の家」の後藤静香先生を尊敬し師と仰ぎ、其の外多くの先生方の御教えを実行して、指笛音楽を完成することが一生の仕事であると信じ御努力された結果であると信じます。先生が大勢の門下の方々をご指導される熱意には深く感動し、私も少しでも別の面で御手伝いが出来るかと思い今日まで御付き合いして参りました。

先生が昭和10年頃指笛普及運動の初期に高田馬場駅近くの小学校前で演奏していた時、早稲田大学の熱心な学生さんが居て、翌日自宅を訪ねて来て練習したが音が出ませんでした。その学生さんは音が出ないのでとうとう諦めましたが、先生の生きざまが気に入ったというのです。その青年こそ後の後援会会長をやってくれた熊谷市の八木橋デパートの会長故八木橋本次郎様で、指笛を吹けない弟子の第一号となった人でした。そして私が指笛が吹けない弟子の第二号となりました。

田村ファミリーが今日の隆盛になりましたのは、美都子先生、静海先生、次女の泉さんのピアノ、長女の洋美さんと三女の恵さんの指笛で田村先生の力強い指笛音楽を応援されました賜であると信じます。

私は田村先生ファミリーと御付き合いが出来ましたことを一生の誇りとしています。先生が御健在の間に先生の後継者の門下生が大勢となり、指笛音楽が益々御隆盛となりますことを心から祈念して居ります。

(中村千里氏は大正3年生まれで87歳になられます。戦前台湾にある旭電化の工場の隣に軍の駐屯地があり、そこにいらっしゃった田村先生が兵隊達と一緒に工場の風呂を借りに来ていて、工場の秋田県人数名と知り合いになったことが中村氏との出会いを作るきっかけとなったそうです。)

「希望のささやき」とともに

塩谷 彰宏 (本会会員)

 

指笛を吹き始めて40年が過ぎた。

私は指笛を吹く時、いつもある光景を思い出す。・・・私の郷里は瀬戸内海に面した兵庫県高砂市である。今は山もだいぶ削られ、阪神工業地帯のベットタウンと化したが、私の子供の頃はまだ豊かな自然があった。

ある秋の日の夕暮れ、私は近くの小高い丘に登った。夕焼けの茜曇に木々が照り映え、播州平野の稲穂が黄金色に波打っていた。

その時、一羽の鳶(とび)が頭の上をゆっくりと飛んだ。私は人差し指と親指で輪を作り、ピーと吹いた。すると、その鳶が大きな輪を描き始めた。私は夢中でピィーピィーピィーと続けた。そうすると、あっちの山から、ずーっと向こうの山から、何十羽もの鳶が集まって来て、あの美しい夕焼けの空を高く、大きく舞った。

教員になってから、武蔵野音楽大学にスクーリングに行った際にトランペットの先生から田村大三先生のお話を聞いた。その日に、電話帳で田村先生の電話番号を調べ、連絡をして中野にあった田村先生の自宅にお伺いした。

中野の田村先生の家の玄関には「指笛の家」と書かれた表札があったのを記憶している。その時に田村先生は私に人差し指で演奏する方法を教えてくださり、「希望のささやき」の曲を演奏してくださった。それから、当時小学校4年生であった田村恵さんの演奏も聞かせていただいた。

その後、私が上京した折に、田村先生のお宅を訪問させていただいたり、田村先生が盛岡で演奏会を開催された時や、弘前の教会で演奏された時にお会いしたりした。

ここ何年かは私も新宿の安田生命ホールや練馬文化センターでの指笛音楽研究発表会に参加して、楽友会の仲間の皆さんと一緒に演奏させて頂いている。

現在、青森では、青森県教育委員会の事業である「青森県民カレッジ」の悠々塾部門の指笛講座の塾長をしている。7歳から67歳の塾生に指笛の指導をしているが指導することの難しさを痛感している毎日である。

今年の青森は13年ぶりの大雪で、今は白銀の世界に埋もれているが、5月・6月頃になると八甲田山や白神山地の雪がとけはじめる。

私は、たっぷりと雪解け水を含んだ緑いっぱいの森の中で、指笛を吹いて、小鳥たちとコミュニケーションをとったり、「もののけ姫」や「コンドルは飛んでいく」を演奏することを楽しみにしている。

 

指笛の上手な女の子との出会いが

中村 綸ニ

指笛との出会いは、昭和60年10月陸上自衛隊第一音楽隊(練馬)のファミリ−コンサートです。当時私は第一音楽隊長として昭和59年8月着任をした年でした。ファミリーコンサート企画担当の隊員から「指笛」が大変上手な女の子がいるのでゲストとしてどうですか?との発案に、「指笛」?半信半疑でOKを出してコンサートの準備に取りかかった事をよく憶えています。指笛の上手な女の子とは当時国立音楽大学の現役学生の田村恵さんの事、大三先生のお嬢さんだったのです。

実はファミリーコンサートのメインゲストは歌のお姉さん事真里ヨシ子さんで、T部「ピーターと狼」のナレーションとU部でもドレミの歌など何曲か歌って戴きましたが、演奏会が終了した時はサブゲストの恵さんの指笛演奏が強烈な印象として残り、感動いっぱいの演奏会だったのです。「口笛吹きと子犬」マイフェアレディーより「一晩中踊り明かそう」そしてアンコールに行進曲「美中の美」を客席からステージに向かって吹く指笛演奏は圧巻でした。客席と一体となった3曲のライブ録音テープは今でも私の指笛の師となっています。

指笛の出会いから実際に私がゆびぶえに挑戦するのは前記の演奏会から数えて4年7ヶ月後のことです。自衛隊を退職し東京音楽大学の職員として勤務して1年10ヶ月が経過したある日、音大のスタジオから聞こえてくる行進曲「美中の美」の演奏を耳にした時、そうだ!!指笛に挑戦してみようと決心したのです。忘れもしない平成2年5月21日に初めて指を銜えたのです。以下が指笛の進度情況です。

練習環境に恵まれ毎日2時間は指笛練習に取り組んでいました。音が出るまでに1週間位かかりましたが音階練習を基本に、その後伴奏曲に選んだのが宗次郎のオカリナ演奏のCDアルバムで日本の唱歌を中心に独学で練習を続けておりました。とある日読売新聞の広告欄に高橋義郎氏のセゾン劇場での演奏案内を目にし、会場に出かけ、そこで田村大三先生にお会いして本格的に練習をしたい旨を申し上げました。平成5年1月25日にオカリナ演奏テープを持参して田村先生の門を叩くこととなりましたが、当日は雨で大泉学園駅までわざわざ先生が愛車で迎えに来て戴きました事を忘れる事は出来ません。

指笛の家に到着しオカリナの伴奏での演奏は相成らぬと、きつーいお叱りを受け以来オカリナ伴奏による練習は一切なし!!

平成5年1月8日(月)第一回レッスンを開始、晴れて田村大三門下生となる。(52歳)以来平成12年1月31日(月)まで月二回7年間168回のレッスンを1回の休みもなく皆勤で全過程を終了することができました。高等科修了の資格は戴きましたが、大三先生の70余年の指笛歴を始め先輩諸氏が築いてこられた指笛音楽の歴史の中にやっと足を踏み入れたばかりの私です。7年もの歳月を熱意をもって心温まる御指導を戴いた静海先生に心からの感謝とお礼を申し上げます。又時期を同じくしてレッスンを共に受けた素晴らしい先輩門下生の斎藤(秀)、吉田両氏に出会えたお陰でここまで指笛を続けてこられた事を記してペンを置きます。

新しい目標に向かってさらにさらに指笛音楽発展のために精進することを誓って・・・。

 

(中村氏には田村門下生の指笛音楽研究発表会の企画・運営について担当していただいています。)

宮城富雄先生を偲ぶ

鈴木玲子

初めて草笛のメロディを耳にしたのは今から20年も昔のこと。それは懐古園で草笛を吹いている横山祖道というお坊さんが出ているテレビ番組からでした。その日から10年位たったある日再びあの忘れもしない音色が流れてきました。祖道氏ではなくそれは宮城富雄という人が吹く草笛のメロディでした。

さっそくお電話を差し上げ先生にお会いすることができました。その日は5月の25日で田村先生の指笛の家に案内されました。途中の道すがら、垣根からいろいろな葉っぱをとってメロディを奏でてくださった。長い間待ち望んでいた夢が叶った瞬間でした。

先生のカバンの中にはいつでもご自分が載った新聞記事のコピーや草笛に関する資料等がいっぱい入っていまして、私はお会いするたび見せていただくのが楽しみでした。先生は草笛のみでなく指笛による小鳥の鳴きまねでも全く名人と呼ぶにふさわしい方だったと思います。特に小鳥の鳴きまねをする時には「どの指でもできますヨ」等と言ってみんなを驚かせそんな時とても楽しそうでした。

親しみやすく飾らぬお人柄でいつでも誰にでも親切で惜しみなく草笛の普及に尽くされていました。最期の日まで。

宮城先生は私にとっては草笛の恩人とも言うべき人でした。それだけでなくそれまで知ることのなかった田村先生の指笛というすばらしい音楽にめぐり合わせて下さった恩人でもありました。そんな先生が3年前の早春にとつぜん逝ってしまわれた。

飯能に越されてからは「子の権限の東屋で土曜日に草笛を吹いています」とおっしょっていられました。子の権現の東屋に行けばまた先生にお会いできると思っています。

中村洋美さん(田村先生ご長女 アメリカ在住)から新年のご挨拶を頂いておりましたので、遅ればせながらご紹介いたします。

いよいよ新世紀となりました。父も88歳になると思うと(何かじっとしていられない気持ちになりますが)皆様の御愛に守られ本当に幸せな父だなあと心から感謝致しております。今年も大変お世話になりますがどうぞよろしくお願申し上げます。いつも楽友会通信お送りいただきありがとうございます。楽しみにしてすみからすみまで読んでおりますが、いつも皆様の熱いお心を感じときには泣けてきます。

お一人お一人の指笛と父との出会いに驚いたり、嬉しかったり、感心したり本当にドラマのようです。いつの日か一冊の本になったらどんなに素晴らしいでしょうと思ったりしております。4月には又お世話になります。よろしくお願い申し上げます。   

洋美

事務局より

1月8日の総会で楽友会の規約が改正されました。松谷さんのご協力で総会に関する既定が追加されました。又竹中さんの働きできちんと清書できましたのでお届けいたします。

あー 春だネ、だれかさんのウグイスが鳴いている。