映画 「石井のおとうさん ありがとう」

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慶応元年に生まれ、大正3年に没するまでに
岡山孤児院設立をはじめ数々の偉業を成し、福祉という言葉がない時代に
震災や飢饉による数千人の孤児たちを救った

石井十次

その波乱に富んだ生涯が今年、映画になります。監督は山田火砂子 石井十次役に松平健
詳細は下記をクリックしてください。

田村先生は2月10日に、
安田尚義作詞 加藤二郎作曲 ”石井十次” を指笛で奥様は歌で録音しました。藤好君もお手伝いと記録に参上。もちろん介護が必要なお体で新曲にチャレンジするのは並大抵のことではありません。
奥様の静海先生もご本人も終了後は、大変お疲れのようでした。


撮影:藤好真也

田村家には一枚の額に入った写真があります。

その額となる板は、
石井十次の最後の住まいであり、
多くの孤児や職員や関係者の汗と涙を受けとめ、
夢を育ててきた孤児院の建物の床板の一部です。

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石井十次は濃尾大地震や東北大飢饉で生じた孤児たちを救い、
そういった福祉の草々期にキリスト教信仰と社会奉仕活動を
後藤静香先生の下、果敢に行っていた秋田出身の田村先生にも大きな影響を与えました。田村先生は指笛で全国的に有名になった後、
全国の孤児院を慰問して回ったことはよく知られていることです。

十年ほど前に、後藤先生の心の家の関係から長くお付き合いをされている、以前は日向学院の英語の先生をされていた杉千明氏が宮崎に田村ご夫妻を招いて、石井十次ゆかりの地 高鍋町などをいろいろとご案内してくださったそうです。

石井記念友愛社より田村先生に写真と額が贈られました。
その額の裏に書かれている文章をご紹介します。

この額は、明治12年に建ったベレー館(現静養館)の床板を材料にして作りました。

ベレー氏は岡山に最初に入った宣教師の一人です。明治16年京都同志社に転出。その後岡山孤児院がベレー館を購入し園舎として使用。大正2年宮崎県の茶臼原に移築し、石井十次の最後の住まいとなります。約120年にわたり、アメリカ人や多くの子供たち職員たちの汗、涙を受けとめまた夢を育ててきた床板でした。シロアリが入り補修した際、捨てずに取っておき今回の額として甦らせました。

中の写真は石井十次の「密室教育」を写したものです。バックに注目してください。石井は常に世界を視野にいれた教育をしました。外国に移住、留学した子供たちも何人もいます。真ん中の絵は藤島武二作で大原孫三郎が石井十次にプレゼント(明治36年)にしたものです。中国の諺「獅子が千尋の谷に我が子を突き落す」を題材にしています。この絵の前で対座する石井十次を思ってみて下さい。

1997年4月18日 石井記念友愛社

映画のホームページの中に監督の文章があります。是非、全文をお読み下さい。

〜略

石井先生は「親のない孤児は可愛そう、もっと可愛そうなのは、精神的孤児」だと、常に言っていたそうです。
その精神的孤児があふれている今日、孤独で寂しいのは自分だけと思わず、この映画にご支援いただければこの上ない幸せです。

2003年9月 山田火砂子

孤児院や児童擁護施設の創生期や福祉の黎明期の話は、専門の方にしかあまり知られていないのではないでしょうか。この映画を通じて、現代ではごく当たり前のことが社会に根ざすためにどれほどの苦労があったか。また何もない時代の精神的な豊かさなど。大変興味深いテーマです。

静海先生との電話と資料から
笹原記